大分県別府市で起きたひき逃げ事件の被疑者について、警察庁は全国の警察に協力を要請しました。この事件では、去年、交差点を歩いていた大学生が車にはねられて亡くなりました。
その後、車を運転していたとみられる27歳の男が逃走し、指名手配されました。このような事件で重要指名手配になるのは初めてのことです。
その27歳の男の名前は「八田與一」で石川県出身。石川県出身で「八田與一」といえば明治から戦前の昭和にかけて活躍した著名な水利技術者と同姓同名。その八田與一さんには迷惑な話ですよね。
彼は台湾の嘉南平原に大規模な灌漑システムを建設した日本人技術者です。彼の功績は今でも台湾の農業発展に貢献しており、台湾の人々から敬愛されています。そこでここでは八田與一さんの生涯と業績について紹介します。
八田與一について
八田與一の生涯
八田與一さんは1886年2月21日に山口県河北郡花園村(現在は金沢市今町)に生まれました。
父親は農業・養蚕・醸造・製紙など多方面で事業を展開する実業家でしたが、八田さんが幼い頃に亡くなりました。八田さんは母親の手で育てられ、石川県尋常中学、第四高等学校を経て、1910年に東京帝国大学工学部土木科を卒業しました。その後、台湾総督府に入り、水利課長として台湾の水利事業に携わりました。

1918年には台湾南部の嘉南平原の調査を行い、嘉南大圳(かなんたいしゅう)の計画を立てました。この計画は受益者が「官佃渓埤圳組合(のち嘉南大圳組合)」を結成して施行し、半額を国費で賄うこととなりました。
八田さんはこの組合付き技師となり、1920年から1930年まで、完成に至るまで工事を指揮しました。この間には落盤事故や関東大震災などの困難もありましたが、八田さんは工員たちと共に乗り越えました。嘉南大圳は総工費5,400万円を要した工事でしたが、その価値は計り知れませんでした。
1939年には台湾総督府に復帰し、勅任待遇技師として台湾の産業計画の策定などに従事しました。また1935年には中華民国福建省主席の陳儀の招聘を受け、開発について諮問を受けるなどしていました。
1942年5月、陸軍の命令によって3人の部下と共に客船「大洋丸」に乗船した八田さんは、フィリピンの綿作灌漑調査のため広島県宇品港で乗船、出港しましたがその途中、「大洋丸」は五島列島付近でアメリカ海軍の潜水艦「グレナディアー」の雷撃で撃沈され、八田さんも巻き込まれて死亡しました。
享年56歳でした。八田の遺体は対馬海流に乗って山口県萩市沖に漂着し、萩の漁師によって引き揚げられたと伝えられます。
日本敗戦後の1945年9月1日、妻の外代樹さんも夫の八田さんの後を追うようにして烏山頭ダムの放水口に投身自殺を遂げました。享年45歳でした。
嘉南大圳の計画と実施
当時の台湾は雨季と乾季の差が激しく、嘉南平原は水不足に悩まされていました。八田與一はこの問題を解決するために、嘉南大圳と呼ばれる灌漑システムの計画を立てました。
嘉南大圳は台湾最長の河川である曽文渓から水を引き、嘉南平原の約10万ヘクタールの耕地に水を供給する巨大な工事でした。
八田與一さんは地形や気候などの自然条件を考慮し、曽文渓ダムや高屏渓ダムなどの水門や堤防を設計しました。また、地元の人々と協力して、土地改良や農業指導も行いました。
この工事は1930年に完成し、嘉南平原は「東洋の穀倉」と呼ばれるほどの豊かな農地に変わりました。
八田與一の人柄
八田與一さんは技術者としてだけでなく、人間としても高く評価されています。彼は謙虚で誠実な性格であり、台湾の人々と対等に接し、信頼関係を築きました。
彼は自分の銅像が立つことを拒否し、「人を見下しているようだから」と言って座った姿で造られた銅像を受け入れました。

彼は自分の仕事に情熱を持ち、烏山頭ダム建設中に爆発事故が起きた際も責任感から現場に残り続けました。彼は戦争中も台湾の発展に貢献しようとしました。
八田與一さんは台湾では「嘉南平原の恩人」として敬われており、その墓所や記念館は今でも多くの人々が訪れます。彼は日本人と台湾人の友情の象徴としても尊重されています。